那賀川野菊、そして北條民雄

付記 牡蠣は生きていた
2021.02.15
追記 辰巳新田


15日が妻の月命日なので墓参りに行った。
墓地は、私が育った場所から徒歩で10分足らず。現在の住まいからは車で20分ほどの場所にある。その墓地に道路を挟んで、幼児の私が通った幼稚園がある。今は廃園となっているが、建物はそのまま残っている。立派な幼稚園だった。


「甲子幼稚園」と言った。甲子園球場と同じ年の開園だ。大正13年(1924年、甲子きのえね)である。
いま草茫々だが、子供にとっては広大な遊び場だった。

毎月第一土曜日には嫂と一緒にお墓にきている。15日は私一人。この時季、樒はまだ青々としている。夏は一週間ともたない。
お参りを終え、散歩した。いつもは、家の檀那寺から、育った家のあった辺り、そして河口に向かって歩く。今日は少し上流の川端に出た。そこで「牡蠣」を発見した。


今はもう食べる者などいないだろうが、まぎれもなく私が子供時代、ほじくって食った牡蠣である。こういう状態だから歩くのにも注意が必要だった。とてもおいしい牡蠣だった。というより、これ以上の牡蠣を知らないと言っていい。ただそれは記憶の中の美化だろう。


こうした「よし」が、河口まで一面に生えていた。そして今は思い出せないが、色んな生きものがいた。
鰻もいたのだ。


この辺りが私が遊んでいた場所である。(対岸は辰巳工業団地)
対岸は当時「辰巳新田」と言った。那賀川河口の中州の村だった。
陸につながっていず、さきほどの牡蠣のあったあたりから「渡し船」が出ていた。実用としての渡し船を知るのは、いつの年代までだろう。
徳島大空襲で焼け出された私たちは、ここ辰巳新田に住む母方の伯父を頼った。あてがわれたのは2階で、下は馬屋だった。馬は可愛い。私の一番好きな動物である。

(追記2021.02.23)
先日久しぶりに甥が来た。自分が関係したというカレンダーをおいていった。『徳島慕情』とタイトルされたそのカレンダーには、飯原一夫先生の古い徳島を描いた美しい絵が、各月1枚ずつ載せられていた。その最後12月に、見て直ちにそれとわかる絵があった。私は毎日その島をみて育った。絵のタイトルは「辰巳新田」とある。彼方に見えるのが「淡島」である。(青島ともいう)。


(2020.09.24 野村撮影)

絵では(視線の角度から)海が入って来ないが、あいだに海がある。
リンクは自由と記されているのでご紹介する。
[飯原一夫デジタルミュージアム]
[辰巳新田]

次のように解説されている。
飯原一夫先生のお言葉と思う。
『古文書は「茫漠たる草莽海浜なり」という。 干拓が始まった天保の時代から明治になっても、桑野川と那賀川に挟まれた中洲の東の部分は、 海からの風に葦の葉が重なって波を打った。 大正から昭和になっても、三角州の先の方では葦の穂が西風に海の波のようにうねっていた。 今、茫漠の原野は無い。草莽海浜は消え、工業団地の先端はコンクリートとなって海へ落ちる。』

ここにもあるように私が育った川は、正確には桑野川、あるいは琴江川である(らしい。どこからどこまでがどうなのか、今でもわからない)。辰巳新田は那賀川の河口にできた中州だ。つまり辰巳の上流で那賀川は分岐する。私の育った方は支流(本流より巾が狭い)になる。しかし私の頭の中ではいまだに「那賀川」である。桑野川、琴江川は、使わなかった。
私たち家族は辰巳新田の伯父の家で数ヶ月過ごし、対岸の黒津地(いわば本土側)に小さな家を建てて移った。そこで甲子幼稚園へ通ったのである。

八幡神社があって、(私たちははちまんさんと呼んだ)、ここの秋祭りは盛大だった。黒津地は一つの単位だが七つか八つの地域がそれぞれ「だんじり」を持っていて、神社境内に集合、競い合った。輪っぱのついた「曳きだんじり」だった。
鳴り物の練習に、鉦を担当する子供を中心に大人を含め、夜、町内各家を回った。全家順番だった。練習会場となった家では、それなりのもてなしをする習わしだった。負担には違いなかったが、楽しみでもあったのだ。大人は子供を知り、子供は大人を知った。
時代が移り近くに大きな工場ができた。町内にその社宅もできた。そこへ来た人たちには、そうした習慣がなかった。文化が違ったのだ。それが丁度私が徳島を出る数年前の話である。今は幻影だ。はちまんさんの祭はなくなった。

幻影といえば「蛍」がある。私の子供時代、蛍は蚊の数と同じくらい飛んでいた。・・・
すべて幻影だ。
(追記、ここまで)


那賀川の対岸(現在の拙宅側)
カメラは一羽しか捉えられなかったが、川原には群がっていた。ざっと10羽はいただろう。徳島は鳶の多いところである。
春日野へ来て驚いたのは、生ゴミを、ビニールのゴミ袋そのまま出していることである。烏への防御をしていない。烏に荒らされないのだ。

烏がいないわけではない。田んぼにはいっぱいいる。

しかし何故か住宅地へは来ない。
これはどういう理由なのか、不思議なことである。

まあ、烏の絶対数も、東京・横浜のようにはいない。烏は都会の生き物だと言える。あるいは鳶の多さに関係があるかもしれない。

春日野へ来てもう一つ驚いたのは、蚊が、ほとんどいない、ことである。
拙宅では、蚊取りを用意はしたが、使うことなく夏を終えた。これも不思議なことである。

もう一つ加えるなら、車が汚れない。屋外駐車で、汚れることがない。これは明らかに空気のきれいさだ。


これは拙宅裏の田んぼである。耕運機のあとを小鳥がついている。耕された土の中に、食べものがあるのだろう。可愛い光景である。


JR四国・牟岐線
感じでは6割がこのような単車輌運転で、4割が2連である。3連はほとんど見ない。
徳島は可愛い県だ。
未だに単線。今後ともそうだろう。
「電車」というのも走ったことがない。石炭蒸気機関車のあとはディーゼルになった。

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