2021.02.05
人生はどう展開していくのか、まったく分からないものだ。ほんの4,5年前、自分が徳島へ戻るとは思いもしなかった。私は横浜を好きだった。子供たちも横浜で育った。
仕事の場所だった東京や栃木を、私は愛していた。
「思いもしなかった」のは、妻が、私より先に死んだことである。人間はふしぎなものだ。愚かなものだ。妻が私より先に死ぬなんて私の思いの中になかった。妻も子供たちも、私の墓を、横浜、あるいは鎌倉のどこかにつくるだろう、そしてみんなも、いずれそこへ入ってくるのだろう、そう思っていた。それは妻の母親がまだ元気だったこともある。お母さんの歳までは死ぬはずがないと思っていた。
妻の病いはきついものだった。最後の瞬間まで意識ははっきりしており、それだけに苦しんだ。最期は自ら酸素チューブを引き抜いた。
その妻が、「野村の墓に入りたい」と言い残した。
妻は、私の兄嫁の姪だった。義姉は妻を可愛がり、妻も嫂を慕った。私の父母や兄にも、可愛がられた女だった。妻の意志を、「本家」のみんなが受け容れた。墓地の委員会も、拡張を認めた。
そんなことで私の「根」が、横浜から徳島へ、移ったのである。
なぜ徳島へ戻るのか、そう人は聞いた、私の気持を「分からない」と。
横浜は「人気」の場所である。実際魅力ある都市だ。徳島に人気はない。なぜわざわざ、そんなイナカに。

・・・横浜にはもう私にすることがなかった。東京にも栃木にもなかった。徳島にはあった。それだけのことである。水のなくなった場所から水のある場所へ移る。私には自然なことだった。

徳島に戻って、(住まいの町名が「春日野」なので以後拙文では「春日野」と記すが)、丁度8ヶ月となった。最近私に、これも思いもしなかった変化があった。「散歩」と「料理」である。ともに無縁のものだった。横浜は、平坦な道がないと思えるほど坂の多いところである。私の住まいも「※※坂」という場所だった。通勤にも、最寄駅まで坂を下り、上り、また下りた(帰りは逆)。それだけで冬でも汗をかいたし、夏は更に大変だった。しかし運動にはなっていたのだ。その上で「散歩」する気にはまったくならなかった。私は75歳まで働いた。

この年末年始、娘が割と長いあいだ滞在してくれた。
1月8日に初めて娘と春日野町内を歩いた。周辺の小山へも登ってみた。これは楽しいと思った。
すぐ近くに『昔日の土佐街道』(阿千田峠越え)があった。峠頂上まで往復して、拙宅から1時間足らずである。
峠へは毎週一度上ることにして、その他は立江側のたんぼ道を歩いている。横浜と違って基本的に平坦なので、歩くのは楽である。四国霊場第十九番札所・立江寺まで、往復50分だ。

料理は春日野へ来て、仕方なく始めたものであるが、最近突然おもしろくなった。
勿論ヒトが食べておいしいものであるはずはない。やさしい嫂や姪たちが時々食べてくれている。
こんなおもしろいことを、この歳までとっておいてくれた、神さまに感謝である。


今日は左右につながる「昔日の土佐街道」を直角に越え、野神方向に歩いた。突きあたりに「野神神社」がある。いつもはそこで右折、県道28号方面に進んで県道の手前で右折、つまり拙宅方向へ引き返す。そうすると「昔日の土佐街道」北口・青木入口に出る。そこを5分ほど歩くと、左方向が拙宅のある住宅団地入口になる。
今日は初めて、野神神社を超えて進んだ。歩行距離にその自信が出てきたのだ。
新しい道路が建設されている。「四国横断自動車道」で、この辺りに「立江・櫛渕IC」が出来るのかもしれない。
それを背に拙宅方向を撮影した。春日野・西春日野住宅地は、山の向こうにある。



私の子供時代は、この時季、田んぼには「レンゲ草」が、淡いピンクの絨毯を敷きつめたように咲いていた。本当に美しかった。この写真の広大な田が、淡いピンクの花で覆われた、その美しさを知る者は、いつの年代までだろうか。私は土色の田を見るたび、いつも心で色をつけている。
レンゲは、可愛い花だ。だけでなく甘かったのである。甘さに飢えていた子供の私は、レンゲの花を吸った。
(※私の子供時代はレンゲでなく「ゲンゲ」とよんでいた。しかし言葉としては、ゲンゲよりレンゲが花の姿をあらわしていると思う)

この写真の道をまっすぐ進むと、[阿千田越え]北口青木入口に出る。



前述通り、この道を5分ほど歩くと、拙宅住宅団地の裏にでる。
その道の途中に、道端に、いわば雑草として、このレンゲ草は咲いていた。
可愛い!
私は思わず一輪をとって、吸った。

 ≪参考資料≫
レンゲソウを植えるのはなぜ?
れんげ蜂蜜

    
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