あかね詩文集

詩文集 『垣根のむこうへ』(あかね会)

私は1980年の聖土曜日に鎌倉・カトリック雪ノ下教会で受洗した。その直後に、当時の「あかね会」会長であった故鳴海幸保氏と知り合った。どのような経過であったか、もう思い出すことができないが、翌日・復活の主日に受洗した娘の代母となって下さった方が、S.V.P.(聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会)の会員で、その方の導きで私もパウロ会に入り、その活動の中で鳴海さんを知ったと思う。私の活動は大したものでなく、体の不自由な方々の為に車を動かす程度だった。そのなかで鳴海さんから一冊の文集を頂いた。それが、あかね詩文集第三集「垣根のむこうへ」だった。一読して私は深く感動した。

第三集という以上、一集二集はないのか、と鳴海さんに聞いた。一集は持っていない、おそらく失われてしまったのだろう。二集は一冊だけ持っている、というのが答えだった。私はその二集を借り受けコピーした。

この詩文集は既にほとんど散逸したと思われる。この侭ではおそらく、人の目に触れることなくすべて失われてしまう。失ってしまうには余りに惜しいと思う。これらの詩文には如何なる詩人にも劣らぬ魂の震え、心のの旋律があると思う。

(なお、この詩文集のWeb掲載については、あかね会元会長 中原えみ子氏、現会長 小柳廣弥氏 の承認を得ています。)

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(追記)

最近、日野市(東京都)出身で英国在住の 田口 麗 さんから下のようなメールを頂きました。許可を頂いていますので転記します。
。。。。。
中学二年のとき、――そのころの日野市は、身体障害者への福祉にとりわけ力をいれていたのですが――とある筋ジストロフィーでなくなった青年の生き方について、講演がありました。講演者が、爪のあとがたくさんついた素焼きの板をみせながらおっしゃるんです。
「これは、彼がとうとう何もできなくなったときに、頼んでねんど板をもってきてもらい、自分の爪を幾度も幾度もおしつけたものです。何とか、自分が生きていたという証を、残したかったのですよね」
。。。。。

「あかね」第二集に、「白いページ」と題された詩がある。

  私の日記のページには
  日付と毎日の天気だけしか書いていない
  ほかに書くことがなにもないから
  若さを燃やす恋もない
  青春を賭けるものもない
  遊びも仕事もなにもかも
  青春という言葉が恨しい
  
  私の日記には書く文字がないんです
  空白の時の中で描いた絵を書いたって
  涙で描いた虚白の夢を書いたって
  しかたがあるまいし
  私が生きた証しに白いページを残します

これは白いページに残された言葉による爪あと、爪がもがれるほどの爪あとだろう。私たち健常者(と呼ばれ本人もそう思っている。しかし私には何をもって「健常」というのか分からない)が日々に何を刻印しているのか。私についていうなら茫たる日常に思える。

(何をもって「健常」というのかについての私見:
パスカル「パンセ」に、体の瑕疵は分かるのに心の瑕疵は分からない、という意味の言葉があります。私の読んだ訳者は「見えるビッコ」「見えないビッコ」としていました。
春山満氏のご講演を聴いたことがあります。春山氏は24歳で筋ジストロフィーを発症、首から下の運動機能を失いました。しかし、介護・福祉ビジネスの第一線で活躍し、2014年60歳で亡くなりました。ご講演で、あたかも私を見つめ、「私は首から下が不自由だ。しかし首から上は大丈夫だ。皆さんの首から上はどうですか。大丈夫ですか?」
その言葉が今も私の胸に突き刺さっています。私のあたま(=心)は大丈夫だろうか。「健常」だろうか?)

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上の文章は、2005年前後に書いたと思います。つまりご了解のうえで私の旧いサイトに、すでにアップしています。今回改訂版としてより原典を思い浮かべていただける形で、(といって第二集は私自身コピーしか持たないのですが)、再掲させていただきます。中原えみ子氏は既に亡く、小柳廣弥氏はお目にかかったことのない方で、連絡の方法がわかりません。従って、本詩文集掲載にかかわる一切の責任は、野村にあります。

  
《目次》(アップ日付新しいもの順)
詩文集「あかね」第二集
詩文集「あかね」第三集 『垣根のむこうへ』