2021年7月4日
このページを記しはじめる今日2021年7月4日は、幼児の私がいた徳島市がアメリカ空軍の大爆撃を受けた日である。それから76年になる。私は3歳だった。そしてこの日を最後に、私たち家族はこの地を去った。一切が焼き払われたのだ。

「最初の記憶」がある。
ただそれが本当に私の記憶なのか、あとで父母や姉たちから聞いたことを自分の記憶と思っているのか、わからない。7月4日の未明だったのだ。川に浸かっていた。父母か姉か、ひっきりなく頭に水をかぶせてくれた。熱風という程度の生やさしさでない炎の舌が、川面を舐めていた。
私の網膜に残る記憶に「形」はない。色だ。「紅蓮」だ。

私たちは母方の伯父ををたより、「辰巳新田」に移った。(今は日亜化学工業が中核となる工業団地になっている)
その後その対岸の「黒津地」に定住した。(川を琴江川あるいは桑野川というらしいが、私にはその呼び名に今もなじみがなく、那賀川と思っている)
私自身は高校を終え上京する18歳までそこにいた。その後、辰巳新田の「工業団地化」、黒津地の「富岡港」への整備等「再開発」があって、父・兄たちは、「羽ノ浦=春日野団地」へ移住した。母は黒津地で亡くなった。父は春日野で亡くなった。

私は1964年、大阪に本社のある会社に就職した。その後1年足らずの名古屋勤務を経て、1969年東京勤務となり、横浜市に住まいを持った。以来昨2020年まで51年間、横浜に住んだことになる。横浜では3度転居した。最初は神奈川区のマンションだった。どうしても庭のある家に住みたくなり、金沢区の分譲住宅を買った。ここには6年住んだが、最寄駅までバスを必要とした。当時は帰りが深夜になるのが普通で、バスはすでになく、タクシー待ちは行列していた。歩けば30分以上を要した。それで中区の、最寄駅が徒歩圏内である場所へ移った。そこに38年間住んだ。最後に中区へ移るとき本籍地を徳島市から横浜市へ移した。それまで、本籍地を移す気にならなかった。知らぬ場所だったが、自分の生まれた地を「本籍」として、戸籍においておきたかった。横浜市の中区に本籍地を移したのはおそらく横浜で生涯を終えると見きわめたからだろう。私も妻も、そして子供たちも、横浜の墓に、入るはずだった。(いま私は本籍地を横浜に残している。不思議だが、横浜が好きなのだ)

私の記憶する本籍地は「徳島市住吉西町1丁目14番地」だった。
それがいつか「住吉1丁目14番地」にかわった。「西町」が消えた。これは知っていた。
6年前に兄が亡くなったとき、遺産相続のため、私の同意書か何かが必要ということだった。兄の遺産相続に私が何で関係するのかまったく分からなかったが、姪の依頼に、何でもハンコ押すよとこたえた。それはそれで何の問題もなかったが、姪が取得した古い戸籍書類を、資料として全部私に呉れた。その中に私の出生地について、「徳島市住吉島町字馬場南35番地の18」と記してあった。迂闊にも私は今まで、それを見逃していたのだった。「住吉島町」というのは初めて知る地名だった。

私は徳島市役所の古い戸籍資料を整理している部署へ行き、「住吉島町字馬場南35番地の18」と「住吉西町1丁目14番地」、「住吉1丁目14番地」の関係を訊ねた。要は、その3つが同じ場所なのか、同じ場所なら現在のどの位置か、同じでないなら、特に「住吉島町字馬場南35番地の18」は現在のどこか。
結論からいうと、皆目何も分からなかった。全部分からなかった。のみならず「住吉1丁目14番地」は現存しなかった。住吉1丁目は11番までになり、12番以降は現存しない。
住吉1丁目が何番まであったのか、14番まであったのは間違いないが、14番が最終なのか、20番まであったのか、わからない。それまでの12番以降を、11番までに再按分区割りしたのか、12番以降は新しい町名をつけたのか、あるいはもともとある別な町にくっつけたのか、何も分からない。

まあこうしたことは、本気で調べる気なら分かる可能性は大と思っている。お寺さんや神社、図書館、等々。
今のところ私にそこまでの気はない。分かったところで風景はまったく違っているだろう。
今の私に分かっていることは、現在の「住吉1丁目」界隈である。それだけでいいような気がする。

今日、その場所へ行った。




このような家並みだ。
反対側(うしろ側)には、〝リバーサイド〟をうたったきれいなマンションが数棟あった。




住吉島橋というのを発見した。いままでここへ足を伸したことがなかった。「住吉島」は地名としては消えたが、橋の名を残したのだ。



川は住吉島川という。かつての「住吉島町」がこの川沿い、橋の辺りであった可能性は大きいと思う。





住吉島川の左に架かるのが住吉島橋、そして北岸が住吉1丁目。
住吉島橋は(つまり住吉川は)私の歩測でほぼ20mだった。

Wikipedia[住吉 (徳島市)]によれば、
元は住吉本町一丁目から五丁目・住吉西町一丁目から二丁目・住吉北町一丁目から四丁目・住吉東町一丁目から二丁目・城東町一丁目から二丁目の各一部であり、昭和41年に現在の町名となった。」
とある。
「住吉西町一丁目」は昭和41年まで地名としてあったのである。その「西町」はなくなったが、地番14番地はそのまま残った。住吉西町1-14と住吉1-14は同一地と考えていいと思う。ところが現在14番地は無い。11番までしか無い。
徳島市役所で親切ではあるが自信なさげに教えてくれたのが、現在の7番あたりがそうなのではないかということである。マークの辺りである。

「南部のー~三丁目(住吉神社周辺)にかけての区域は江戸時代には武家屋敷が立ち並び、古くから都市化の進行した地区であり、古くは住吉島と呼ばれていた。 一方、吉野川堤防に沿った北部の四~七丁目は水田や湿地の広がっていた場所で、昭和40年代以降に住宅地や商業地の整備が進められた。」(Wikipedia)

上の地図のエリアが、昔「住吉島」と呼ばれていたようである。
この辺りで私は生まれ、おそらく住吉神社で初節句を祝ったのだろう。そして7月4日の大空襲に、この川に浸かった。父母の足が川底に届く深さだったこと、流れがゆるやかだったこと、そして夏だったこと、それが私たちを救った。

その辺りを橋上から撮った。川幅は広く見えるがカメラの特性で、せいぜい幅20mと思う。(上のWikipediaよると私が生まれたのはこの背面だったようである。川幅はもっと広い)




吉野川からすぐ近い。「住吉島」という地名からして、昔は吉野川の中州だったのかもしれない。
私は徳島県第1の吉野川近くで生まれ、第2の那賀川畔で育ったことになる。




住吉から見る眉山




昨年亡くなった次姉が徳島大空襲について、「眉山が、またたく間に麓から頂上まで燃え上がった」と話していた。
姉は当時寄宿制の女学校にいた。父がまだ土が熱い道路、くすぶる瓦礫の中を、叫びながら姉を探しに行った。その時の父の形相を長姉は今も話す。私は次姉に訊ねたことがある。「姉ちゃんはどうしてお父さんにあんなに可愛がられたんぜ?」
「それは私が素直じゃったけんよ」

このときを最後に、私は戦争を知らない。このときも私が戦争を知ったとはいえまい。
このままいけば、生涯戦争を知らぬ、幸運な一生になる。
大災害にも遭ったことがない。
これでは話がうますぎる、という気がする。どこかで辻褄が合うはずだと思う。可能性として1番大きいのが地震・津波と思っている。