私たちは昭和43年(1968年)に横浜市の神奈川区に住みはじめた。私が東京勤務になったからである。その後金沢区へ移り、最終的に中区に住んだ。中区に住みついたのは昭和57年(1982年)4月からである。古家のある土地を買い、のちに家は建てかえた。妻は最後までそこに住み、その土地を愛した。34年間住んだことになる。地所は登記簿上では300㎡あったがうち裏側の100㎡弱は傾斜地で、生活できる土地でなかった。ただ東南向きの傾斜地は植物にとって絶好の環境であるらしく、果樹もよく育った。先住者の残した立派な柿が2本あった。私が徳島人の本能で苗を植えたスダチが、肥料も手入れも一切なしで、毎年、持てあますほど多くの実を与えてくれた。3分の1は小鳥たちに残した。お隣に差し上げ、会社で配った。このスダチをジャムにし、それを使ったロールケーキが、上品でおいしいものだった。いずれ娘が、商品として作り上げてくれるだろう。
その木々の下に、妻はいろんな花を植えた。地味な花ばかりだった。お茶をしていた妻が、「茶花」として育てたと思う。

春になると、それらの花の数倍の勢いで、「雑草」はすべてを覆うように生えた。私には花と草の区別がつかなかった。しかし抜くことを妻は許さなかった。抜けば、花も一緒に抜く、といった。雑草を整理するときも、必ずハサミを使い、根は残すよう私に指示した。(このことを思い出すと私はいつも「毒麦のたとえ」を思う)

雑草のあいだから自分の花が顔を出すと、「ああ出た出た」と妻は喜んだ。
死を覚悟した最後の日々、妻は植えた花々の名と場所を、私に教えた。私は必死にメモした。
妻が死んだのは8月である。ほったらかしの続いた家の庭は、ものすごい雑草たちだった。花はほとんど見えなかった。

私は、妻から私への最後の願いとして、妻が教えた花々の回収・再生をしなければならない。それは今も続いている。徳島へ多くを移植したが、まだ横浜には残っている。

旅先で道を歩くときも、道端の小さい花を観察するのが、妻は好きだった。
私がまったく気づかない花を、妻はよく見つけた。
妻は目が弱かった。鏡で、自分の顔がはっきり見えない、という理由で、化粧は一切しなかったほどである。
それが道端の花にはよく気づいた。お前、よく見えるなあ、というと、
「綺麗なものは見える」
という妻の答えだった。妻が私に遺した、花よりも綺麗な、言葉である。
 
 
 
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